長谷川豊氏、フジテレビ擁護(?)の発言で大炎上
ホテル従業員女性に対する強姦致傷容疑で逮捕された俳優の高畑裕太容疑者の母親で、女優の高畑淳子氏が記者会見を行ったが、その会見時にフジテレビのアナウンサーが高畑淳子氏に対して行った「高畑容疑者の性癖に関する質問」が不適切だとしてネットで批判が高まっている。
そして、この件に関して元フジテレビのフリー・アナウンサー長谷川豊氏が自身のブログで「あの場にいたら、自分も確実にあの質問をしたと思う」という主旨の記事をアップ。今度はこの投稿記事をめぐって大炎上している。
このブログ記事の中で長谷川氏は、自身の若い頃の体験談をこう綴っている。
私があるレイプ事件の取材に行っていた時です。
私たち取材班は他局に先駆けて、加害者男性の親族にたどり着きました。その段階で独占のインタビューです。私はいくつもの質問をしました。すると横から先輩ディレクターが執拗に
「容疑者の男性の性癖に気付くことはなかったか?」
と聞くのです。私は疑問を感じました。
一緒に住んでいる肉親であればまだ分かりますが、親族です。いくらなんでもいい歳の若者が自分の性癖を親族に見せるでしょうか?しかし、次の瞬間、その親族は信じられないコメントをしたのです。
「実はあいつは…我々親族の中でも心配になることがあったんだ。昔からアニメの女の子のポスターを破ったり、顔の部分を執拗に引き裂いたりして…それで嬉しそうな顔をしてた。我々も、少し『あいつ、ああやって喜んでるんとちがうか?』と話題にしたこともあったんです」
これは重要なスクープとなりました。
性的サディズムは生まれつきの性癖です。どこかしらにそのサインが出るときは…実は少なくありません。なんと、そのレイプ犯はアニメのポスターに自分の歪んだ性を吐き出し続け、ついに一線を越えて少女に対して犯行に及んでいたのでした。取材が終わって、私はその先輩ディレクターにかなりきつい口調で叱責されました。
「なんであそこで性癖についての質問が出来なかったか?」
私はいくらなんでも親族に自分の性癖は教えていないはずだ、と考えた、と答えました。するとその先輩ディレクターは私を怒鳴りつけてきました。
「それはただのオマエの想像だろう!相手の質問に対する答えを、オマエが勝手に決めつけるな!」
高畑淳子氏の記者会見での、フジテレビの質問について「自分も確実に質問したと思う」という意見は、このような経験を踏まえてのことである。
そして、長谷川氏の意見は、ジャーナリストの論理と倫理に照らせば正しい。それがたとえ、一般の心情や感覚とは違ったものであったとしてもだ。
結局のところ、今回のフジテレビや長谷川氏に対する批判、炎上とは、ジャーナリストの論理と市民の論理のズレから生じていることなのだ。
人が殺されそうになっている時にジャーナリストが行うべき行動とは?
このような炎上事件が起きる度に僕が思い起こす事件がある。1985年(昭和60年)に起きた、豊田商事の永野会長殺害事件のことだ。
豊田商事というのは、被害者数万人、被害総額2000億円とも言われる戦後最大級の巨額詐欺事件を起こした会社だ。大阪の駅前ビルに本社を置き、老人たちに金を販売していた。といっても、ほんとうに金を売っていたわけではない。金を購入した人に対して「金の実物を家に置いていると盗難などの危険があるので、我が社でお預かりしておきます」と言って、預かり証だけを渡す。つまり、金を売ると言って実際に売っていたのは単なる紙切れだけだった。
そして、被害者、被害額が増大するにつれ大きな社会問題となり、マスコミも連日報道。永野一男会長の逮捕も迫る中、永野会長は自宅マンションに閉じこもり、数十人の報道陣が部屋の玄関前に陣取っていた。
そこに自称右翼の男二人が乱入。多数の報道陣がいるなかで、廊下に面した部屋の窓を壊して侵入。部屋にいた永野会長の頭部など13カ所を銃剣で刺し、永野会長は病院に搬送後に死亡した。
この間、数十人いた報道陣は誰も二人の暴行を止めようとはしなかった。
奥の部屋にいた永野会長は、男たちの襲撃から逃げ回り、最後に男たちが侵入してきた部屋に逃げてきて、そこで力尽きて倒れたのだが、その一部始終を報道陣は見ていた。カメラマンは写真を撮っていた。
その時の写真がこれだ。(凄惨な写真なので閲覧注意)
後に写真家の藤原新也氏は、写真から判断して「たぶん、永野会長とカメラのレンズの距離は数十センチ程度の至近距離だったと推測される」と述べている。
つまり、それだけの至近距離で殺されようとしてる人間を、数十人の報道陣は見殺しにした。それだけではなく、カメラマンたちはシャッターを切っていた。
この報道陣の態度に対して、大きな非難の声も上がったが、毎日新聞のカメラマンは社長賞を受賞している。
少女を見殺しにしようとしたと批判されたジャーナリストの自殺
誰かが命の危機にある時に、その人間を助けるか、その瞬間を撮るか。これはジャーナリズムの永遠のテーマだ。
かつて、南アフリカ共和国にケビン・カーターという報道写真家がいた。
彼は『ハゲワシと少女』という作品でピュリッツァー賞を受賞している。
これは、スーダンの餓死寸前の少女をハゲワシが狙っている瞬間を撮影した写真だ。
この写真は、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載。スーダンの飢餓の悲惨さを伝える優れた報道写真だとして大絶賛されるいっぽうで、「なぜ、少女を助けようとしなかったのか?」という大きな批判も巻き起こった、
「報道か? 人命?」の大論争の中、翌94年のピュリッツァー賞を受賞するわけだが、その受賞の約1ヶ月後、ケビンは自殺する。
その自殺の直接的な原因は、このスーダンの少女の写真だったかもしれないが、自殺する数年前から、衝撃的な写真ばかりが世間から求められることへの大きな疑問に苦しんでいたという。
東日本大震災で、ベテランの戦場カメラマンさえ撮れなかった写真とは?
ケビン・カーターの例のように、社会に大きな衝撃を与える作品を撮ったカメラマンも、その作品の背後で大きな苦悩を抱えている。
東日本大震災の時に、富田きよむさんという報道カメラマンから聞いた話も重いものだった。
富田さんは30年以上も戦場カメラマンとして活動してきたベテランで、つまり、世界中のあらゆる悲惨な現場を見てきたと言っても過言ではない。
その富田さんをして「こんな悲惨な現場は見たことがない」とまで言わしめた。それほど、東日本大震災直後の津波被害現場は酷かったということだが、震災後一月ほどの間に、富田氏は約2万枚の写真を撮ったという。
しかし、その富田氏もシャッターを切れなかった「現場」があったという。
世界中の戦場を撮影してきて、東北では2万枚の写真を撮った富田氏でさえ撮れなかった、どうしてもシャッターを切れなかった「一枚の写真」とは?
被災地現場で取材を続けていた富田氏はある日、土の中から突き出た女性の脚を発見した。
それで、消防隊の人たちを呼んで掘り起こしてみた。
出てきたのは、赤ん坊を抱いたまま死んでいた若い母親の遺体だったという。
富田氏は、その親子の写真をどうしても撮れなかった。シャッターを切れなかったという。
その夜、報道陣が集まる宿泊地に戻って、仲間の報道関係者にその話をした。
仲間たちはみな異口同音に「どうして(写真を)撮らなかったんだ!」と叱咤したというが、富田氏は「現場に行って見ろ!撮れるはずがない」と反論したという。
僕なら撮れただろうか?
その話を富田氏から聞かされて以来、僕はそのことをずっと考えている。
たぶん、僕なら撮っていたと思う。
しかし、それは平時だからそう思うだけなのかもしれない。
富田氏の言うように、現場にいたら僕も撮れなかったかもしれない。
たぶん、その答えは現場に直面しなければ誰も答えが出せない問いなのだと思う。
もし、富田氏がその母と子の写真を撮っていたとすれば、それは東日本大震災の悲惨さを伝える歴史的な写真として、永遠に語り継がれる「名作」になっていただろう。
しかし、その「名作」は富田氏の判断で、幻の作品となった。
そのことが正しかったのかどうか。
それもまた、永遠に答えがでない問いなのだと思う。
本稿で伝えたいのは、ジャーナリストというものは、このような苦悩を抱えながら報道を続けているということだ。
ハゲワシに襲われそうになっている餓死寸前の少女を撮影したケビン・カーター。
津波に襲われ、赤ん坊を抱きかかえたまま亡くなった母親の写真を撮れなかった富田きよむ。
どちらがジャーナリストとして正しかったのかは一概には言えない。
しかし、ケビンにしても富田氏にしても、報道か? 人としての倫理か? という狭間で悩み、苦しみ、しかもその重くて難しい判断を、報道現場の「一瞬」で決めなければならない。そんな状況の連続の中で、ジャーナリストとしての仕事を続けている。そこは同じなのだ。
今回の高畑淳子氏の記者会見で、息子の性癖について質問したフジテレビのアナウンサーも、「自分でも間違いなく質問した」という長谷川豊氏も、そのようなジャーナリストとしての葛藤を抱えて生きてきたと信じたい。その上でのあの質問であり、あのブログ記事だと思う。
今回の件に限らず、報道の是非を論じるなら、そのようなジャーナリストの苦悩と矜持を理解したうえで問うべきだと思う。