「関白宣言」が理想という平愛梨の発言に賛否両論。
女優の平愛梨とサッカー選手の長友佑都が12月24日、都内で婚約会見を行った。来年1月29日に入籍するとのことでおめでたい話ではあるが、その記者会見で平愛梨は「(さだまさしの)「関白宣言」を毎日聞いている。あの歌のような女性が理想」という趣旨の発言をして物議を醸している。
「関白宣言」は、さだまさしが1979年にリリースして大ヒットした、さだまさしの代表曲とも言える曲だが、「俺より先に寝るな、後から起きるな」「メシはうまくつくれ、いつもきれいでいろ」「俺より先に死ぬな」などなど、これから結婚する相手の女性に対する男の要求が延々と告げられる曲だ。いかにも昭和の価値観を色濃く反映した歌である。「仕事もできない男に家庭が守れるはずがないってことは忘れるな」というくだりも、いかにも「男は仕事。女は家庭」という、戦後日本の家族観・家庭観をストレートに表現している。
当時からフェミニスト系の女性を中心に「男尊女卑だ」「女性蔑視だ」という批判があいついだ。しかし、この曲は大ヒット。結婚式でもよく歌われた。つまり、フェミニストたちの批判もむなしく、この曲は多くの国民に愛されたということだ。
ただ、今の時代に30歳の人気女優が、「関白宣言」で描かれているような女性が理想と語ることはやはり驚きだ。この平発言に女性はどん引きという報道もあり、ネットでも批判意見が噴出という。しかし、そのいっぽうで「幸せのカタチはひとそれぞれ」という反論の声も高いという。
もちろん、幸せの価値観は人それぞれだ。世の中には、金さえ持っていれば、あるいは社会的なステイタスが高ければ、毎日のように妻を殴るモラハラ夫でもOKという女性もいる。女優といえども、どのような価値観を持つかは自由だ。
しかし、人気の女優、アスリート、アーティストなどのスターたちの発言となると「個人の価値観」で済まされない問題もある。それは、彼ら、彼女たちの発言が社会に対して、特に若者に対して影響力があるから、という意味では無い。そうではなくて、彼ら、彼女たちの発言に、世間がどう反応するかを冷静に見る必要があるということだ。その意味で、スターの発言は「個人の価値観」として片付けられるものでは無いし、批評や論評の対象となることは必要であり必然である。
人気のウェディング・ソングはいつも「男尊女卑」?
そもそも、日本における人気のウェディング・ソングは、基本的に男尊女卑的な価値観に支配されていると言える。
たとえばバブル期を代表するウェディング・ソングといえば平松愛理の「部屋とYシャツと私」であるが、その歌詞は女性から男性に対するリクエスト・ソングである。「関白宣言」が男性から女性に対するリクエストであったことと比べると、少しは時代の変化を感じる。
しかし、その中身はあいかわらず「男に従属する女性」的な内容だ。
サビからして「部屋とYシャツと私、愛するあなたのために、毎日磨いていたいから」と繰り返し歌う。愛するあなたのためにきれいでいたいから、時々は服を買ってねと歌う。寝言で他の女の名前を言われるのは嫌だから「気に入った女の子は、私と同じ名前で呼んでね」と歌う。歌の最後は「人生の記念日には君は綺麗といって、その気にさせて」と締めくくる。
つまり、この歌で描かれる女性の要望とは、すべて男性からどう扱われたいかという視点なのだ。「キレイでいたい」のも、夫から見てキレイという価値観である。近年の女子の「キレイ」「カワイイ」が男性の視線を意識したものではなく、女子コミュニティの中での評価を得るためのものであることと対比して考えると、その価値観はずいぶんと変化したとも思える。
しかし、現代を代表するウェディング・ソングである西野カナの「トリセツ」を見ると、実はそれほど価値観は変わってないとも言える。
ご存じかと思うが、この歌は「このたびは、こんな私を選んでくれてどうもありがとう」というところから始まる。フェミならまずこの「選んでくれてありがとう」の部分でカチンとくるだろうが、その後は「急に不機嫌になることもあって、理由を聞いても答えないけど、放っておくと怒る」とか「定期的に褒めろ」とか「なんでもない日にちょっとしたプレゼントをしろ」とか「たまには旅行に連れて行け」とか「記念日にはオシャレなディナー」とか、これでもか!というくらいのリクエストを並べるが「こんな私だけど笑って許してね」と歌う。
「亭主関白」から30年。結婚する男女の関係性もずいぶん変わった感もある。「関白宣言」の時代の男から見れば「トリセツ」の女性は「とんでもなくワガママな女」に見えるだろう。それはすなわち、それだけ女性は解放されたということができる。
女性活躍推進の議論の中で、男性の育児参加や家事の分担が議論されているが、女性の解放という視点でいえば、これらの議論はまだまだ甘い。女性活躍に必要なことは男女平等でもなければ、イクメンの増加でも無い。そうではなくて、女性が結婚しても「やりたい放題、好き勝手」ができるかどうかであり、夫である男性がそれを許容できるかどうかである。
それを実践してきたのが松田聖子で、仕事も結婚も子どももお店も愛人さえも、欲しいと思ったものはなんでも手に入れてきた。まさに「やりたい放題」。彼女は1990年に全米デビューを果たしているが、そのために前年からアメリカで暮らし、英語のレッスンや音源制作を行っている。この時、娘の沙也加はまだ三歳。松田聖子は自分のキャリア・アップのために、三歳の娘を実家に預けてアメリカでの活動を開始したのだ。
このような松田聖子の生き方が、今の50代女性に与えた影響はやはり大きい。この世代の女性は、比較的好き勝手な女性が多いと言われるが、それはバブルの時代を生きてきたということもあるが、松田聖子の存在も大きかったと思う。松田聖子は、いわば「女性が好き勝手に生きること」への免罪符となっていたのだ。
免罪符とは、時として抑圧からの解放を促す。ポップ・スターやポップ・カルチャーの社会的な役割とはそこにあるわけで、その意味ではウェディング・ソングもまた、夫婦の在り方を変える力と役割がある。
「関白宣言」から「トリセツ」への変化は、その意味でも女性の意識、男性の意識の変化を表しているし、その変化を促す力があると思う。だからこそ、30歳の平愛梨が「関白宣言が理想」と発言したことが、大きな話題になるのだ。
アイドル文脈をぶち壊した欅坂46の新しさ
しかし、その「トリセツ」にしたところで、根底にある価値観は「女性から男性に対するお願い」であり、「女性は男性に守られてなんぼ」という価値観から脱却はできていない。
この曲が、今どきの結婚式の定番ソング、人気曲であるということは、今の若者にとっても、「女性は男性が守るもの」という価値観があるということだ。
もちろん、男性が女性を守ることは悪いことではない。男性側の視点に立てば、女性はやはり守るべきであり、守ろうとしない男はNGだ。
しかし、それでも女性は「男性に守られるもの」という価値観からの脱却は必要かと思う。
特に今の20代後半の女子は「セーラームーン世代」だが、セーラームーンとは日本のアニメ史上初めての「女性ヒーロー」の物語である。チョコラBBの広告ではないが、まさに「戦う美少女戦士たち」の世代である。
このセーラームーン世代から女性の意識は変わって欲しいし、変わりつつあるとも思う。そして、男性の意識も変わりつつある。その兆しは今年デビューした欅坂46に見て取れる。
欅坂46は従来のアイドル・グループの概念からすれば、かなり異質なアイドルだ。その異質さを一言で表現すれば、メッセージ性にある。メッセージとは、自分の意思の表明であるが、日本にも山口百恵や中森明菜のように、その時代の「女の子の意思」を表現したアイドルがいなかったわけではないが、どちらかといえば王道ではないし、アイドル・グループとしてメッセージ性を打ち出したグループもないわけではないが、メジャーとして売れた例は無い。
「ベビーメタルがいるじゃないか!」と言う人もいるだろうが、彼女たちはその名のとおり、メタルの世界観をベースとしたグループで、立ち位置もマニアックすぎて純粋なアイドル・グループとして論じるには異論もあるのではないだろうか? その点で、欅坂46はAKBグループという王道アイドル・グループの中から生まれたグループであり、純粋アイドル・グループだとも言える。その王道(純粋)アイドル・グループがメッセージ・ソングを歌っているのが新しいし、今の時代性だと思う、
アーティストも作家も映画監督も、その本質はすべてデビュー作に凝縮されているものだが、欅坂46はデビュー曲からして、そのメッセージ性は際立っている。
まず、曲のタイトルからして「サイレント・マジョリティ」。この言葉は、そもそもが社会学用語であり、アイドル・グループのデビュー曲タイトルとしては異質だ。さらに言えば今年、世界を震撼させたイギリスのEU離脱を決めた国民投票、アメリカ大統領選におけるトランプ勝利、そしてヨーロッパでの極右政党の台頭と移民排斥の気運など、今の時代の流れの底流を表すキーワードである。そのようなキーワードが、アイドル・グループのデビュー曲タイトルになる。これはまったく新しい。
PVを見ても、アイドルなのに笑ってないし、衣装もまるで軍隊の制服のようなデザインだし、サビの部分で腕を振り回す振り付けも、まるで抑圧や差別に対する抗議活動を鼓舞するかのような「意思の強さ」をイメージさせるものだ。歌も歌詞もビジュアルも、アイドル的な文脈での「カワイイ」が一切排除された作りになっている。PVの最後のシーンで、カメラ目線で横一線に並ぶメンバーたちは、まさに「戦う美少女戦士だち」といった風情である。
重要なのは、このような「意思を持った少女たち」がデビューしたことではない。そうではなくて、このようなアイドル・グループをアイドル・ファンの男子たちが受け入れたということだ。従来、女性アイドルというものは、男の幻想を満たすものだ。男の幻想を打ち破るアイドルがいなかったわけではないが、幻想を満たすことが王道であるからこそ、幻想を打ち破るアイドルは際立つのであり、新しい次代の到来を予感させ、確信させる。
特にAKBグループは、その代表曲が「恋するフォーチュンクッキー」であることを見てもわかるとおり、男の幻想を満たすという意味では王道中の王道アイドルで、そのグループから、メッセージ性を持ったアイドル・グループが誕生したということが大きな意味を持つ。
2016年が女性の時代の幕開けの年だったとすれば、その象徴は小池百合子氏が東京都初の女性知事になったことではなく、欅坂46のようなアイドル・グループが生まれ、それを男子たちが受け入れたというところにあるのだろう。
「関白宣言」や「トリセツ」を聞いて、その世界観に憧れるのはそれこそ自由だが、自由に生きることを選びたいなら、女性は「男性に守られること」よりも、自ら戦うべきだ。職場や社会で戦う美少女戦士たちが、男性にも受け入れられる時代が来て初めて、本当の意味で女性の自由も活躍推進も得られるのだと思う。欅坂46のデビューと成功は、そんな時代が既に来ていることを指し示している。