【『人形の家』を改めて読む】
ノルウェーの劇作家、ヘンリク・イプセン(1828-1906)の『人形の家』という戯曲をご存じだろうか?「フェミニズム」という言葉の誕生前夜、1879年に初演された作品でイプセンの代表作である。この戯曲は弁護士ヘルメルの妻で、若く天真爛漫なノラが家庭内の葛藤を経て自己を確立する–女性の解放へ踏み出す–物語である。
ただし、デンマークの文学者でイプセンと交流があったゲーオア・ブランデス(1842-1927)は本作について、彼のそれまでのキャリアから女性の解放よりも、人間の本性探求に主眼があったとしているし、私もそのように考えている。しかし本作は女性の解放という視点から見ても、現在に通ずる非常に重要な示唆が多く含まれている。また、女性の解放に「芸術」という方法で触れた最初期の作品としても、文学的、女性学的にも重要な意味を持つ。今回は改めてイプセンの作品から女性の解放について少しばかり考えてみたい。
【『人形の家』について】
本作を知らない読者のためにかいつまんで説明すると、物語は次のような内容となっている。夫ヘルメルは若く気立ての良いノラを大変可愛がり、2人の間に設けた3人の子供たちと円満な夫婦生活を送っていた。しかしノラにはヘルメルに言えない「秘密」があった。それは夫が重い病にかかった時の治療費が不足したために、クログスタトという男に借財を申し入れたのだが、その際に保証人となるノラの父のサインを偽造した借用書を差し出した–私文書偽造–ことである。後年ヘルメルはある銀行の頭取に迎えられることになるが、その銀行には零落したクログスタトが下級事務員として勤めていた。
ヘルメルはクログスタトを嫌忌して解雇しようとするが、クログスタトは私文書偽造の件をちらつかせ、ノラがヘルメルに自分の解雇を阻止するように迫った。私文書偽造が露見すれば家庭が崩壊してしまうことを恐れながらも、ノラは真相を打ち明けて夫の助力を乞うことが出来ずに、クログスタトは解雇され、これを恨んだクログスタトは全てを暴露すべく、ヘルメルに手紙をしたためた。
少しのち、ノラの旧友であり、クログスタトとも交流があったリンデ夫人が彼を改心させ、クログスタトは手紙の件を悔いるも、一方でリンデ夫人はヘルメルとノラが夫婦で隠し事をせずに、正面から向き合うべきとして、手紙の回収の不可を説いた。かくて妻ノラの秘密は夫ヘルメルの知るところとなり、ヘルメルは妻の献身が却って自分の将来を危うくするために、これまでの愛情ぶりが嘘であったかのような苛烈な言葉を投げつける。
しかしそこに急ぎの手紙が舞い込む。脅迫の前非を悔いたクログスタトが、私文書偽造を訴える積りがないことを明らかにするために急送した借用書である。借用書が届いたヘルメルは一転して機嫌が戻り、妻を可愛がる元の夫に戻るが、ノラはそこで自らの不明を悟り、夫婦として最初で最後の「対話」を果たす。対話の中で彼女は自らを夫に飾り付けられる「人形の家」の人形女だったと振り返り、そして彼女は自立を求め、夫と子供を捨てて旅立つ。
【「人形の家」とは何だったのか?】
夫ヘルメルは妻ノラに大きな愛情を注ぎ、それを言葉という形で分かりやすく示してきた。しかしその言葉の中には「わが妻はかくあるべし」というパターナリズム(paternalism:家父長主義)的なニュアンスが随所に見られる。ノラの魅力には「わがままというスパイス」が含まれているが、作品の前半にヘルメルが銀行の頭取になることを見越して、ノラがクリスマスに少し贅沢をしようとして、ヘルメルがそれを窘めながらも、結局クリスマスは物入りだからと、多めに金を渡す描写がある。しかしそんなわがまますらヘルメルのパターナリズムの範疇を出ていないし、ノラはヘルメルの言いつけを守り、「夫にとっての良き妻」であろうとする。
ヘルメルのパターナリズムはノラの生活を保障するが、一方でそれはノラの「らしさ」とトレード・オフの関係にある。それ故ノラはヘルメルの望む妻であろうとする。そこには「対等な人格同士の対話」も「対等であるが故に生じる葛藤」も存在せず、男が女という人形を飾り付ける、という一方的な愛し方の構図が浮かび上がる。
法的問題はともかくとして、私文書偽造の件はノラの夫への愛情がさせたことだが、それはヘルメルのパターナリズムからの「逸脱」であった。この逸脱はパターナリズムを前提とした家庭の崩壊の危機であり、同時に彼女にとっての自己の確立の萌芽でもあった。ヘルメルのパターナリズム的な愛情がノラの愛情を阻み、それによって家庭崩壊の危機を招来し、その時に初めて対等な人格同士の対話が行われたことが、この夫婦の不幸であったと言ってよいだろう。
【γνῶθι σεαυτόν】
『人形の家』はパターナリズムが支配する日常の中でできた綻びが、女性の自己の確立につながった、という流れになっている。「女性の解放」というと男性社会の論理で構成されたさまざまな仕組み–夫婦同姓論や再婚禁止期間規定など–による束縛、つまり「制度からの解放」と、「○○はオンナの仕事だ」のような不合理な性的分業とその固定化や蔑視などの「差別からの解放」という2つの解放系が議論になりやすい。現実社会で女性が生きてゆく上でさまざまな社会制度や人間関係は絶対不可欠である以上、これら2つの解放系において、女性性を尊重しながらその不公正を是正することは極めて重要である。
しかしこれらは女性の外部に存在する解放系である。この解放が実現できるのは「女性の社会的地位」に関わる事柄だけであり、女性自身が自己を確立–精神的自立–することに対して、直接貢献できるものではない。だからこそ、女性自身が自己の内面を解放する内部の解放系も必要となる。
ノラのヘルメルとの対話は自らの中の未知の領域に光を当てて、自己の内面の解放をもたらした。彼女は未知の領域と向き合うことで失われていた自己を回復し、確立するきっかけを掴んだ。これは内部の解放系の作用だと言えよう。
小見出しの「γνῶθι σεαυτόν」とはアポロン神殿に刻まれていた格言で、「汝自身を知れ」である。女性のキャリア論でも「自分が何をしたいか」、という視点の話は多いが、「自分が何者か?」を真剣に掘り下げる話は寡聞にして聞かない。しかし自己を深く知ること、つまり自己の未知の領域を解放することが「何をしたいか」をはっきりさせてくれる。ノラは不幸なイベントを通じてそれを知ったが、男も含め、われわれがここから学ぶことは多い。