本当の天才とはどのようなものか?
14歳の藤井聡太四段が将棋の連勝記録を塗り替えた。14歳の少年が新記録を樹立しただけでも凄いことだが、公式戦デビュー以来負けなしでの記録達成というのはもっと凄い。藤井四段が天才であることは議論の余地がない。
しかし、藤井四段が天才であることの意味を誰だけの人が分かっているのかは疑問だ。
僕は基本的に「生きているうちに理解される人間は、本当の天才ではない」と考えている。
たとえばゴッホは生前に売れた絵はたったの2枚。地動説を唱えたコペルニクスの理論も当時は誰の理解ができず、弟子たちが整理して理論を確立。それから長年経ってようやく地動説が認められた。
数学の世界では有名な「フェルマーの最終定理」というものがあって、17世紀フランスの天才数学者ピエール・ド・フェルマーが書き記した定理で以下のようなものだ。
立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪(べき)が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。
この定理は誰も証明ができず、反証もできず、この定理が正しいことが完全に証明されたのは1994年。実に360年もかかった。
物理学者のホーキング博士も天才の誉れ高いが、博士が言っていることを完全に理解できている人間は世界に五人くらいしかいないと言われている。
本当の天才とはそういうものだと思う。
では藤井四段はどうなのか?
新記録を達成した昨日の増田康宏四段との対戦。多くのメディアでは序盤から中盤にかけて増田四段が攻勢だと伝えていた。しかし将棋界のレジェンド「ひふみん」こと加藤一二三九段によれば、この対戦は序盤から藤井四段の圧勝だったという。
数多くの将棋記者や解説者が「増田四段攻勢」と見えていた局面でも加藤九段だけには「藤井四段攻勢」と見えていたわけだ。
僕は29連勝という数字よりも、このエピソードの方に藤井四段の天才を感じる。
将棋界の伝説であるかつての大山名人をして「大天才」と言わしめた加藤一二三九段だからこそ分かる。というか、そのレベルでしか分からない。それが藤井四段の将棋なのだ。やはり天才だと思う。
凡人は天才性をどうやって獲得すればいいのか?
さて、天才が「生きているうちには理解されない」ものであるとすれば、多くの凡人であるビジネス・パーソンにとっては天才であることは不要だし、むしろ邪魔になる。生きているうちに理解されなければ、ビジネスは成り立たないからだ。
やはり天才とは学問とか芸術とか、ビジネスを超えた領域にこそ必要なものなのだろう。
しかし、そうは言っても多くのビジネス・パーソンは優秀な人材になりたいと思っている。ホンモノの天才になる必要はなくても、天才的な能力は身に付けたいと考えているだろう。このような天才的な能力(以下、天才性と呼ぶ)はどうやって身に付ければいいのか?
実はどのような凡人にも、もっと言えばたとえ知的障害のある人にでも天才性はある。それは「自分にとって苦にならないなにか」である。
藤井四段を見ていると「この人は努力という言葉とは無縁だろうな」と思う。
もちろん、客観的には藤井四段は人の倍以上に将棋を勉強し、研究しているだろうが、本人にとってはそれは努力でもなんでもなくて、快楽でさえあるだろうということだ。
たとえば、サッカーでも並の選手が毎日500回のリフティングを頑張ってやってプロ選手になれるとすれば、天才は普通に楽しみにながら毎日1000回のリフティングをこなしてしまう。これが凡人と天才の違いでもあるが、このような天才性は誰にでも備わっている。
学校の勉強が大嫌いで、高校もまともに出ていないようなギャル・タレントと話をしていると、彼女たちのファッションや化粧品に関する知識の豊富さに驚かされることが多い。数学や英語の勉強は大嫌いでも、ファッションや化粧品の勉強は大好きだし、苦にならないのだ。
その意味では「好きを仕事にしろ」というのは正しいのだが問題もある。
教育現場でも「好きを仕事に」と言い出してから若者たちを苦しめているのは「好きなものがなにもない」という悩みだ。
なぜ、このような悩みが生じるかというと「好きを仕事に」というメッセージには「好きなモンを見つける努力をしろ」という圧力が内包されているからだ。その圧力に自発的に好きを見つけられないティーンスは悩む。
天才性が発揮されるのは好きなことにおいてではない。なぜなら、天才性とは自分だけにくっついたなにか特別なものではなく、「決定的に欠けたモノ」だからだ。そのことについては長くなるので説明はまたの機会に譲るが、職業選択でいえば、好きを仕事にするよりも、苦にならないことを仕事にする。それくらいに考えておいたほうがいい。(もちろん、好きが明確に分かっている人は好きを仕事にしていい)
その「苦にならない」ことも人によって千差万別だ。
たとえば僕の場合は、活字を読むことがまったく苦にならない。どれくらいかというと、仕事で頭が疲れた時にリラックスするために活字を読む。企画書を書いたり原稿を書いたりして頭が疲れてくると、無性に活字を読みたくなるのだ。活字を読むことがまったく苦にならないし、むしろ快感ではある。
といっても、いわゆる読書家とは違うと思う。読書家という人たちは本を読むのが好きなようだが、僕の場合はネット記事でも週刊誌の記事でも哲学書でも社会学や文化人類学の学術書でもなんでもいい。
世の中には僕以上の読書家はゴロゴロいるが、多くの場合、彼らの関心は限定的だ。たとえば、歴史が好きなら歴史の本はやたらと読んでいるが経済学の本は読んでいないとか。
僕の場合はなんでもありで、ヤリマン女子大生のちんぽの食べログも、量子力学の本も、現象学の本も、誰かのアイドル論もまったく同列に関心があり、読む。
読書量では負けることも多いが、守備範囲の広さで負けることはあまりない。欅坂46とサイモン&ガーファンクルとハイデッガーとダニエル・ベルを総括して語れる人間は、日本にはそう何人もいないのではないかと自負している。自分になんらかの天才性があるとすれば、その守備範囲の広さではないかと思っている。
このような天才性(独自性とも特異性とも言える)は誰にでも備わっている。「好きを仕事にしろといわれても、好きなものがなんにもない」と悩んでいる人は、「好き」ではなく「苦にならないもの」がなにかを考えた方がいい。そして、苦にならないことを仕事にしたほうがいい。それが自分を活かす道だと思う。