【オンナという消費社会の供犠】
前回のコラムでは女性性(femininity)を本当に尊重するのではなく、女性を単なる経済力、市場としか見ていない「見せかけの解放」の存在について言及した。見せかけの解放は社会のさまざまな場所に存在するが、それは特に消費の領域においても目立っている。約40年前にドイツの精神科医で、サイエンス・ライターのヴォルフガング・シュミットバウアー が著書『消費人間』(原題”Homo consumens”1972)において消費社会批判の論陣を張る中で、女性と消費の関係について次のような指摘をしている。
‐男性がほとんどの商品をつくり、宣伝し、売っているのに対して、女性は「宣伝の主な犠牲者であり、国民の金銭のおもな使い手」‐
女性と消費の関係は、当時と現在で大きな変化はあるだろうか?残念ながら本質的な変化があったと言えないばかりか、見せかけの解放が増えたことによって、むしろ悪化しているのではないかとすら感じられる時もある。今回はこのような消費の観点から女性の解放について少し考えてみたい。
【女性向けの伝統的市場と新興市場】
冒頭のシュミットバウアーの指摘だが、同書が執筆された時代は「ウーマン・リブの季節」だった。そのウーマン・リブの政治的業績の一つに、日本の男女雇用機会均等法の成立(1972年)などに見られるような、ビジネスにおける女性への門戸開放があった。その仔細の説明は前回のコラムに譲るが、端的に言えば、女性への門戸開放と、経済成長による各国の消費社会化が時期的に重なっていた。この2つの潮流をマーケティングの視点から振り返ると、「家庭という女性向けの伝統的な市場」に加え、「ビジネスという女性向けの新興市場」の確立であり、「女性の市場化」の加速であったと評価することができる。
家庭という伝統的な市場では、従来から家事労働を通じて女性が住宅や自動車などの耐久消費財、生活必需品・サービスの購入に大きな影響力を行使しており、現在もその地位に大きな変化はない。現在も多くの夫が家電や自動車の購入に関して自分の価値観だけでなく、妻の価値観やそのユーティリティを考慮しているし、食料品や洗剤などの日々の生活必需品の購入に関する意思決定は妻が行っているケースが一般的である。
また、ビジネスという新興市場ではOL(この語は和製英語なので、英語圏で近い考え方は”Pink-color worker”)などは男性より少ないものの、農村の専業主婦などと異なり、自主的に管理できる一定の現金収入を得て、それなりの消費生活を享受できるようになった。また、社会の晩婚化傾向は、女性の独身期間の長期化を示すものであり、このような新興市場の「長寿命化」や、「おひとりさま市場」のような新興市場の細分化に一役買っている。
こと消費に関しては、男性よりも女性の方が「何を消費するか?」の選択機会に恵まれていると言っても過言ではない。アパレルやコスメティックといった領域は従来から女性優位の市場であるし、いまやデパートやショッピングモールのような小売業では量的にも質的にも、男性よりも女性をターゲットにした売り場づくりが行われている。飲食業では牛丼やラーメン、居酒屋のように男性のイメージが強かった食品や業態であっても、女性の利用しやすさが重要な経営課題として認知されており、消費における女性の存在感は非常に大きい。
しかし、2013年の厚生労働省のデータ によれば、男女の賃金格差は依然として解消されておらず、一般労働者のカテゴリでは、女性は男性の71.3%しか賃金を受け取っていない。新興市場で経済的価値を持つとされている女性は、男性よりも少ない賃金にもかかわらず、男性よりも過剰な消費選択の機会という「リスク」にさらされている可能性があると考えることもできる。それはジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』で描かれた、経営者が貧しい労働者を低賃金で農場に縛り付け、その賃金を農場内の売店で巻き上げる様子にも似ているのではないだろうか。
【企業に消費されるオンナ】
過去と比べて女性の解放が進んではいるものの、家庭であろうが、独身女性の領域であろうが、依然として多くの女性が利用する製品やサービスを生み出している企業、特に大企業は、脂ぎった醜い中高年男性が主要な役員、管理職のポストを占めている(しばしば役員には後期高齢者の男性が含まれるが、これは一種のダイバーシティ経営だ!)。そして女性は多くの場合「最高級の賛辞」とともに、補助的な役割しか与えられていない。マーケティングに女性の視点(しかも男性社会に過剰に適合した女性の視点である)を取り込むために一見すると華々しいポストが与えられることはあるが、経営(ガバナンス)の中枢で遇されることは稀である。このことは シュミットバウアーの「予言」の確かさと、企業が提供する製品やサービスという解放の多くが、見せかけの解放であることを示唆している。
今よりも女性への社会的抑圧と軽侮が強かった時代に青少年期、壮年期を送った男性経営者の中で、心からの女性性の尊重を経営に活かす信念と能力を持ち合わせた人間がどれだけいるのか、それは誰にも分からない。残念ながら現時点で社会は制度的にそれを強制するか、淡い期待をするか、という選択肢しか持ち合わせがないのである。だからこそ企業は強制されたものに対して、実利を伴わない場合はその形骸化に力を注ぐ。予算や権限を伴わない「女性活躍推進室」の設置や、その会社、業界のことをほとんど知らない女性の社外監査役や社外取締役の起用など…
消費社会の中で確かなことは、女性は消費選択の機会に恵まれているが故に、「消費するオンナ」と呼ぶにふさわしい存在だということである。一方で、製品やサービスの供給者の大多数は【企業=男性によるガバナンス】であり、企業サイドの視点から見れば、女性は攻略すべき市場として「消費されるオンナ」であるとも言える。そのような企業に消費されるオンナは、本当に「解放」された存在と言えるのであろうか?
【消費されるオンナへの問いかけ】
一般的な女性学の議論であれば、「消費されるオンナ」の問題に対して、企業や資本主義システムが女性を抑圧する特性を持っていると、女性以外に対して批判的分析の眼差しを向ければ良いのかも知れない。しかし社会には企業の提供する製品やサービスが不可欠であり、現実にはこれらを批判するだけでは問題の解決につながらない。
ここであえて問いかけたいのは、企業に対してではなく、消費されるオンナたちに対してである。家庭で、職場で、消費されるオンナは自分の消費が社会的にどのような意味を持つかを考えているだろうか?企業が発信する「愛され力」や「自分へのご褒美」などのメッセージには、一応「女性のため」という女性性の尊重が含意されているが、果たしてそれは真意なのか、本当に女性の解放に有効なのかを考えているだろうか?それは「やさしい嘘」かもしれないと、考える余裕があってもよいのではないだろうか?
また、前回のコラムで指摘した、男性社会に過剰に適合した女性、つまり思考や行動様式が「男性化した女性」の経営者・企業が提供する製品やサービスについても、同じように女性の解放に有効なのかを考えるべきではないだろうか?
神学者であり、反ナチズムの闘士として非業の死を遂げたディートリヒ・ボンヘッファーは、かつて教会における投げ売りのような安っぽい恵みや赦し、慰めなどを「安価な恵み(Billige Gnade)」と批判したが、この批判は女性と消費の関係についても同じことが言えるのではないだろうか?消費という行為は余りにも日常的すぎるために、却ってその意味を考えることが少ない。ましてや製品やサービスの中にやさしい嘘という、安っぽい恵みや慰めが紛れ込んでいればなおさらである。しかし、そのような日常に安住し、「安易な自己肯定感」を持つことは本当の解放から遠ざかるのではないだろうか?
このコラムは「企業(男性)」対「消費者(女性)」という「単純化した不毛な対立」を煽ろうとしているのではない。賢明な読者には、ぜひ日常の消費における女性性のあり方について、自分なりに考えてもらいたい。それは企業が提供する解放の真贋を選別することにもなる。アリアナ・スタシノプロスの解放された女性のイメージは「知性」を条件としていたが、日常の当たり前を改めて見つめ直すことは、その知性の「実践」でもある。