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女性「解放」論再考のすゝめ 第5回: オンナがオンナを論じるとき

【「認識する」と「話す」の限界】

言葉とはヒトが生きてゆくために絶対に必要な要素であり、一方で非常に厄介なモノである。意思を他人に伝え、物事を達成するために言葉は不可欠であるが、一方で話すことによって自分の認識を100%完全に伝え、相手が理解したという確証を得ることは困難である。今回はこの困難さを「女性が女性を論じる」ことと関連付けて考えてみたい。 

言葉を話すという行為は、自分の認識している事柄の表明であるが、ある事柄について、自分がその全容や本質を正確に理解することも困難である。社会通念などのバイアスは自分の認識に常に影響を与え、また、自分が正確に事柄を理解しようとする努力を軽減してくれる。だからこそヒトは不完全な認識に基づいて話し、日々コミュニケーションの蹉跌を生み出している。 

【制作者不明の女性像を通じて認識されるオンナ】

上述の問題は当然男女のコミュニケーションにも表れている。残念ながら多くの女性は、自分の特質や事情に無理解な男性から、直接、間接を問わず「所詮オンナは〇〇だ」や、「オンナは△△だから××として扱うべき」と評価されたり、物事の選択肢から外された経験を持っている。そのような経験は家庭や学校、ビジネスを問わず、決して珍しいことではない。 

これは男性が眼前の女性本人を認識する努力をせずに、制作者不明の女性像(ステレオタイプ)を女性本人の評価に「代用」する、つまり【制作者不明の女性像に関する認識の表明=眼前の女性を評価】にすり替えて、それをコミュニケーションに用いているケースといえよう(もちろん逆のケースも多々あることは改めて詳述するまでもないだろう) 

これこそ認識することと話すことの限界がもたらす問題であり、その限界を克服しようとすると、実際には途方もない努力が求められる。それ故、眼前の女性本人を知る努力の代わりに、社会通念をベースにした制作者不明の女性像を通じて現実の女性を論じることは、極めて「イージーな手段」として用いられている。そしてこれは【男性→女性】だけでなく、【女性→女性】の認識・コミュニケーションでも見受けられる。 

【オンナというカテゴリ内のグラデーション、ギャップ】

男性と同様に、女性が女性を評価したり、論じることは、女性起業家や女性のオピニオンリーダーの特権ではなく、家庭で、職場で、地域でと、あらゆる場所で行われている。しかし、「女性を論じるという行為」にも認識したり、表現することの限界がある。その限界は「論じる主体」が女性であっても変わらない。 

女性が語る女性論の中で展開される女性像、つまり女性による女性への認識も、多くの場合、自分の経験や制作者不明の女性像に依拠している。「デキる女子は〇〇」という考え方・表現や、「女子力」というタームなどは、その典型例である。 

当然だがこれらのイメージの女性像は、女性のすべてを網羅したモノではないために、「該当する女性」と「該当しない女性」に分かれ、あるテーマに基づく限定的な女性像である。認識することと話すことの限界とは、男女に共通する問題であるからこそ、女性もまた女性を論じようとすれば、前述のイージーな手段をとらざるを得ないともいえる。 

だが、現実にはヒトはセックス(生物学的性別)とジェンダー(社会的性別・性同一性)の組み合わせをベースにして自分の存在を認識する。例えば、多くの女性はセックスが女性であり、ジェンダーも女性だからこそ、自分の存在をトータルで女性であることを認識し、性同一性を保持している。 

しかし、「女性であること」のイメージは、全ての女性に同一内容で共有されている訳ではない。セックスとジェンダーが女性であっても、子供を産み育てたいと思わない、コケティッシュなファッションに興味を持たない、社会が押し付ける「女性らしさ」に違和感を抱く、というヒトは少なからず存在する。 

だからといって、そのヒトの「自分が女性である」という認識は些かも揺らぐものではない。現実の女性にはセックスとジェンダーの「濃度」の違いから、さまざまな女性のあり方、つまり「グラデーション」が存在する。

セックスが男性であっても、ジェンダーを、つまり自分の性を女性だと認識しているヒトは、自分をすんなりと男性だと認識するだろうか?これは性同一性に関するギャップであり、性のあり方に関するグラデーションでもある。少なくともこのようなヒトをトータルで男性として認識し、それを前提に何かを論じることは、そのようなヒトのアイデンティティの否定につながりかねない。 

【オンナの「何」を論じているのか?】

ヒトである以上、認識することと話すことの限界はなくならず、この限界はヒトの認識能力や言語能力では克服できない。男性と同様に、女性が女性のあり方を論じる際、常に「言い尽くせない領域」が出てくる。

女性も全ての女性の特質や事情を包摂して議論することはできないが故に、イージーな手段で女性を語らざるを得ない。しかし、女性がイージーな手段で女性を論じれば、特質や事情が考慮されない女性が、論じている女性から「疎外感」を感じる可能性が生じる。この疎外感は、語り手と、語られる対象の社会的なポジションの隔たりが大きいほど、感じやすくなる。 

例えば「グローバル化の時代で女性は〇〇であるべきだ/ありたい」という言説は、一見するともっともな言説であるが、海外志向が強い、あるいは海外経験が豊富な、いわゆる「ハイスペック女子」以外の女性には必然性が乏しく、ドメスティックな環境で生活する女性には疎外感の原因になったりもする。いわゆる「マイルドヤンキー」B層」にカテゴライズされる女性には、全くリアリティのない言説である。 

女性起業家が強い上昇志向に基づいて「あるべき女性のキャリア」を論じても、一定のポジションでの安住を希望する女性に対しては、全く魅力的ではなく、却って女性起業家の言説に対して疎外感を感じてしまう。これらのケースは、女性間の「意識格差」を生み出すことを意味する。 

だからこそ女性として、女性のあり方について論じる場合は、自分が言い尽くせない領域があることを常に意識し、自分は「オンナの「何」を論じているのか?」という自問を絶えず行い、議論の対象を明確にすることが必要ではないだろうか?それこそが女性を論じることのリアリティを保ち、さまざまな女性と連帯して、女性の自律性を高めることにつながる途ではないかと思う。

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泉 貴嗣(いずみ よしつぐ)

CSRエバンジェリスト「允治社」代表、第一カッター興業㈱監査役、静岡市CSR企業表彰専門委員会 委員長。
大学の研究員、講師としてCSR教育や産学連携教育などを担当した後、独立。自治体が直接企業のCSR経営を認証する初めての取り組み「さいたま市CSRチャレンジ企業認証制度」、「静岡市CSRパートナー企業表彰制度」の制度設計などを手掛ける他、上場企業の監査役も兼務。CSR以外にも女性学にも造詣が深い。

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