― 今こそ真の奥ゆかしさを実行する時 ―
奥ゆかしいと聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?
少しうつむき加減で、なんとなく寂しげな控えめな笑顔で、なんとなくうなづく感じで、はっきりとは何も言わない。そんなイメージではないだろうか。しかし、改めて言葉の意味を調べてみると、
「深みと品位があって、心がひかれる。深い心遣いが感じられて慕わしい。」とある。
ゆかしいというのは、行かしい、そこへ行きたい、という意味で、奥へ行きたい、つまり、その人の心の奥に惹かれる、という意味なのだ。
深みと品位。そこから生じる心遣い。
であるならば、
自分の意思を表示しないことは、むしろ混乱や誤解や迷いを招くだけであって迷惑であるし、感情とミスマッチな曖昧な表情も同様に迷惑になる。
真に、相手に迷惑をかけずに、物事をスムーズに進めるように協力する気持ちがあるならば、正直なYES、NO、好き嫌いは、はっきりと伝えた方が良いに決まっている。無駄な間違った憶測を抱かせずに済むので、無意味な疲労も争いも起こさずに済む。
嫌われないように自分を隠すのではなく、相手がやりやすいように自分を表示する。これが心遣いでないとしたら、何を心遣いというだろう!?
― 我がままと意思表示は別物 ―
人は、こと極端に物事をとらえがちだ。
もう一度言うならば、つまり、大切なのは自分が良く思われるために、ということではなく、相手を思いやればこその意思表示であるのだから、相手を傷つけるための発言ではないことを確認しておきたい。
紅茶がいいですか?珈琲がいいですか?と尋ねて、なんでもいいです。と答えられるより、珈琲が好きですと答えてくれて、美味しいと飲んでもらえた方が嬉しいはずだ。すなわち、自分の意思表示をしないということは、相手を喜ばせないということだ。だから、意思表示をすることが、我がままだなどというような、あまりに時代錯誤的な価値観をまだ持っているとしたなら、もう、本当に、捨て去ったほうが良いと思う。むしろ逆なのだから。そして、反対意見=人格否定という、その価値観そのものが人格否定的な見方も手放すときがやってきて随分経っている、ということも念のため記しておきたいと思う。
― 現代特有の奥ゆかしさ必須事項 ―
平安の昔であっても、文(手紙)の返信は早いほど良いとされたが、人が運ぶ手紙が自分に届いた以上、それはそれなりの重みをもって届いたに違いない。だから、返信の義務感も自然に生まれたであろうと思われる。
ひるがえって、現代はどうかというと、文(メッセージ)のやりとりがあまりに簡単に便利になりすぎたせいか、その重みが感じられないらしい。
あなたは、レスポンスが早いタイプだろうか。それとも、既読にしながら何も返信もしないタイプだろうか。機械を通したとしても、送り主は人間である。一斉送信だとしても、あなたをその中に選んで送っているのである。一斉送信は、システム上そうなっているだけであって、気持ちは常に、1対1のはずなのである。
どうせみんなに送っているのだから返信しなくても良い、と考える自らその他大勢の中に紛れ込むような低い自己評価は、結局相手に対して失礼な態度しか生まないし、個別に来たメッセージにも返信しないとなれば、もう、奥ゆかしさのおの字も感じられない。すぐに返信できなくても、既読にしたならば、後で返信するなどの一言でも、とりあえず返信するのが深い心遣いではないだろうか。実際のところ、忙しくて絶対に返信など来ないだろうと思う人ほど、すぐに、しかも丁寧な返信をくださる。そんな、お手本にしたい素晴らしいたくさんの女子に囲まれて私は幸せだ。
― 奥ゆかしさとは威厳である ―
結局、奥ゆかしさとは、人として相手を慮って真摯に向き合う、ということの現れであるから、その具体的内容は時代と共に変化していきながらも、普遍的な女子力として身に付けておきたい美徳と言えると思う。少し大げさに言うならば、相手によって態度を変えず、表面的ではないお互いの深い尊厳を認め合うことで生まれる深さや品位が、奥ゆかしさなのではないだろうか。自らを許すことで、相手への許しを不作為のメッセージとして伝えつつコミュケーションを取ることで、奥ゆかしさは生まれるのだと思う。その裏付けは、尊厳と誇りという意味での、威厳である。
潔く、颯爽としていて、笑顔で優しさをもって対峙する姿に、現代の奥ゆかしさが観える。
自分の幸せを自ら創造していく女子力の高い女子には、奥ゆかしさは必須であることは間違いない。