~ダイバーシティに正しさは合わない~
東京都板橋区のお寺が初詣客に対して、ベビーカーでの来訪自粛を呼びかけネットで大論争になっているが、人と人との軋轢が起きるときは、どちらも自分が正しいと思っているときだ。これは、どちらが正しいのかの決着はつかない。そういう性質のものではないからだ。
これからのダイバーシティの時代の価値観に、正しさはマッチしない。ダイバーシティは、個々それぞれが正しいのだから。しかし、だからといってオールオッケーにしてしまっては、ダイバーシティというよりは、劣悪なカオスでしかない。ダイバーシティであればこそ、普遍的な軸となる基準というものは必要不可欠であるはずなのだが、客観的ダイバーシティも主観的ダイバーシティもごちゃまぜで、今のところまさにカオスだ。しかし、良くとれば、これからその軸を創っていける余地があるということだ。
~ダイバーシティは問題を発展に変える~
このダイバーシティのカオスを象徴した感のあるベビーカー論争は、まさに、何が正しいのかの議論にすり替わってしまったように観える。しかし、どうすればいいのか、が大事なことと思う。
この時、いわゆる公共の福祉という点において、誰もが100%満足いくことなどないのだから、折り合いをどこでつけるかが大事なはずだ。その上で、ダイバーシティ的発展性をどこに見出すのかの視点で観てみれば、様々な可能性を見いだせるに違いない。
例えば、私が思いつくアイデアは、混雑の激しいところは、大晦日の夜や三が日に集中しないようにする工夫だ。特にいつまでを初詣と言うというような決まりはないようだし、初詣は明治時代に電鉄会社が電車を利用してもらおうと始めたキャンペーンで広まったという説もあるし、そもそも初詣に行くか行かないかさえ自由だ。が、行きたい人に行くなというのは建設的な意見とは言えない。であるならばの一つの策である。
それで、むしろこれを機に、これからの日本は、何を軸に、ダイバーシティを健全なものに育てていくのか。今、そのことについて議論を交わすチャンスを得たのではないだろうか。
極端な例だが、映画のスターウォーズに出てくるタトゥイーンは、見た目も特性も異なる様々な星の民が居住し、ずるがしこく強い者が幅をきかせ、1対1の約束が重要な意味を持つ星だ。つまり、軸となっているのは個々の双方の約束なのだ。双方がイエスならそこに道徳を介在させる必要がない。
~ダイバーシティこそ調和~
タトゥイーンほどでないにしても、見た目は同じ日本人でありながら、その多様性は増し続けている。むしろ、見た目が同じ日本人だから、何事も同じであることが前提となってしまい、違うとショックを伴ったりする。しかし、そもそも、誰一人として同じ人間ではない。そして、ダイバーシティは、日本の良さを失うものではない。今、日本に起きているダイバーシティは、実は一人の人間の中にも起きていて、見事に相似形を成し、むしろ、全体としては、日本人のアイデンティティの中心に還っていっているようにも思う。
戦国時代、日本を一つの国にまとめることが目標とされた。江戸時代、一つになった日本を維持させることが目標とされた。黒船がやってきて、列強の国々と互角に渡り合うために帝国主義となった。猿真似と言われながら必死で西洋文化を取り入れた。大東亜戦争に負けて、憲法が作り直され、民主主義国家となり、国民が主権者になり、法の下に平等である国となった。そして、70年が経った現在、私たちは、どこへ向かうのだろう。どこへ向かいたいのだろう。
そんな中、ベビーカー論争は起きた。起きるべくして起きた。と思う。たかがベビーカー論争かもしれないが、根っこでは、このような、なかなかに大きな本質的な問題をはらんでいるのが、今回のベビーカー論争のように思えるのだ。
これからの未知なるダイバーシティの時代の要となる普遍的な軸は、個人的には、良心であってほしいと願う。そして、その良心から生まれ出た、日本人のお互い様精神は、いよいよ、ダイバーシティをもって、その本領を発揮させる時がやってきたのではないだろうか。
このきっかけがベビーカーとは、これから育てていくという意味において、なんとも象徴的だと思うのだ。